エキセントリックな大家さん・その2

さて、前回の続きです。前回はちょっとイカレた大家である J の大学時代までの経歴をお話しました。裕福な家庭に生まれ、寄宿学校から Oxbridge へ進学し卒業するまでのお話でした。
大学を卒業して以来、J は Upper Middle Class 特有の保守的なエリートであり、一般社会における時代の洗礼を受けていないかといえばそうではありません。しっかりと受けています。というよりは、ドップりと浸かることとなるのでした。その時代の洗礼とは、ビート文化(Beat Culture)であり、J も一端の実践者、すなわち「ビートニック」(Beatnik)であったわけです。


ビートの文化はヒッピー文化(Hippie Culture)の先駆けとなる社会現象で、50年代初頭にアメリカで発生しアメリカ・ヨーロッパを中心として起きた社会現象です。そもそも、ビート文化という現象は、アメリカにおける新たな文学活動を起源とし、日本の「禅」思想が大きく影響を及ぼしています。端的に言えば、純粋に精神世界(Spiritual world)を追求しようという社会現象で、戦後の過度な物質世界(Material world)への反動とされています。


この精神世界の追及において欠かせないのが、ビートニックにとっては「ドラッグ」、とくに LSD だったわけで、いわゆる「サイケデリック」(Psychedelic)という考えが取りざたされるようになりました。また、ボヘミアン快楽主義(Bohemian Hedonism)ともいわれるように、快楽の追及が生き様、だったのです。

さて、お気づきでしょうが、J は英文学専攻でしたので、ビート文化に無関心であったはずはありません。それどころか、ビートニックの王道を行くような人生を歩むわけです。


では、その王道とは何か? そう、J のついた職業は「詩人」だったのです。私も J の初期の何篇かの詩を読ませてもらったのですが、彼の扱う題材はすべてにおいて暗く陰鬱としていました。なぜかと J に聞くと、理由は簡単でした。この時期に彼は「うつ病」(depression)を患っていたのです。そして、極めて独特な治療が始まるわけですが、このあたりから J のイカレ具合、エキセントリック(eccentric)さが加速していくのでした。いいかえれば、ビートニックとしての本領発揮です。

英語:2021年度からの新学習指導要領

さて、2021年度から英語教育が大きく変わります。単語を覚える分量が、小学生で(700語)中学生(旧:1200語 ⇒ 新:1800語)、高校生(旧:1800語 ⇒ 新:2500語)、と大幅に増えます。とはいっても、これは学生の作業量が増えるのみで、暗記に費やす時間を増やせば対処できる問題です。

英語に関した新学習指導要領の大きな狙いは、日本での「英語の公用語化」だと思います。その一端は、新学習指導要領が、高校生までに「ディベート・プレゼンテーション」を英語で行えるようになることを目標として掲げることからうかがい知れます。中学校においても、英語による「コミュニケーション力」を重視することが記載されていて、中・高いずれの場合も、「話すこと」「アウトプットすること」に比重を置きたいようです。

新学習指導要領の問題は3つあります。(塾の対応としても)

①コミュニケーション能力 ②英語による授業 ③頭のいい子に不利

① コミュニケーション力は、そもそも「生まれつき」の能力であり、コミュニケーションの苦手な子供はどうすればいいのか?ーそもそも英語塾が対応すべきことなのか?― コミュニケーションを形式化し、苦手な子供に「Aと入力したらBと振舞うように」と永遠に教えこむべきなのでしょうか?これではコミュニケーションの苦手な子は「ロボット」にならなくてはいけません。いや、「ロボット」になれればまだいい方かもしれません。コミュニケーションの苦手な人々は、社会不適合者と見做されることを懸念しています。一種の「優生教育」なのです。日本は「パンドラの箱」を開けてしまったような気がします。一方で、人々の多様性を叫び、他方で、生まれつきの能力で人を判断する。謎です。

② 授業は英語で行う。文科省は日本人の多くがスタンダードな英語で自分の意見を主張できるようになることを期待しているのでしょう。なるわけがありません。今でも植民地を多く持つイギリスに住んでいた経験から予想しましょう。私の予想は、日本において、日本語が母国語である限り、英語は「ピジン言語化」します。「ピジン言語(Pidgin Languages)」というのは、昔、日本の植民地であった「満州」在住の中国系住民が使っていた日本語「私、日本語しゃべれるアルよ」というあれです。全ての英語教師を英語圏出身者に置き換えればこうはなりませんが、その時には日本語が母国語であることは、もはやないでしょう。文科省も日本人の言語能力を信頼しすぎなのかもしれません。

③ 一日の大半を日本語を用いて過ごす子供たちに、英語の単語は英語で覚え、文法も理解できるまではフィーリングで覚えよう、と学校は指導するようになります。特に利発で早熟な子供は、モノゴトを考え、そして理屈でモノゴトを理解していきます。そのようにモノゴトを思考し理解してきた言語は、日本語ですから、それを急に英語に切り替えるには、よほどの適応能力が必要になるでしょう。それでも、利発な子供たちは、対応していくと思います。しかし一番心配なのは、適応していくまでの過程で、くじけてしまうことです。今迄に形成された自我が、一定期間通用しなくなるからで、利発な子供ほど苦労することになるでしょう。

そもそも、母国語で大学教育まで受けられる国というのは、世界においても少数派です。本当は、その奇跡のような状況を大切に守り、かつ、発展させていきたいところなのです。英語は道具です。その道具に振り回されるのだけは避けましょう。

エキセントリックな大家さん・その1

イギリスに留学していた際、下宿していた家の大家(Landlord)は、奇人変人(eccentricity)レベルの非常な変わり者でした。ですから、たくさんの逸話があり、一度では収まりきらないので、今回は第一回目としまして、ちょっとイカレた、エキセントリックな大家さんの生い立ちからお話ししたいと思います。

彼の名前は J としておきます。まだ存命だからです。J は極めて裕福な家庭に生まれました。父親は貴族ではありませんでしたが、ナイト(Knight)の称号を持ち、だれでも知っている某大企業の会長でした。父親の兄は別の分野で大変有名な人だったのですが、ここをハッキリさせてしまうと、人物が特定されてしまうので伏せておきます。父親の妻、つまり J の母親もまた、財閥クラスの家庭出身でした。ですから J は一言でいえば「中流の上」(Upper Middle)の家庭出身といえるのです。


このような家庭環境に生まれた子供の常として、J は寄宿学校(Broding School)に入れられました。


通常、イギリスで寄宿学校に入るのは12-3歳からですが、第二次世界大戦の戦時下という状況と家庭の事情もあり、なんと4歳から、寄宿学校で暮らすこととなりました。大家さん自身も言っていたことなのですが、このような寂しい幼少時代の体験が、後の彼の人格形成に多大な影響を与えたことは言うまでもありません。当時の寄宿学校は軍隊のような場所だったようで、上級生からの鉄拳制裁もしばしばあったようです。過度の「自由に対する希求」はこの時に養われたものとなります。


寄宿学校卒業後は、大方の卒業生がそうであるように、オックスフォード・ケンブリッジ大学(Oxbridge)へ進学しました。大家さんは前者に進んだのですが、勉強もそこそこに演劇に明け暮れていたようですし、期待していたほど楽しい大学生活ではなかったようでした。大学では英文学を専攻していたのですが、授業スタイルがつまらなかったようで、卒業後しばらくしてからUniversity College of London つまり UCL で再び勉強し、ここで初めて勉強の面白さを知ったそうです。

そして、UCL 卒業後、ついに全ての Upper Middle の家庭に課せられた「義務教育」から解放された J は、自由を求めて羽ばたき始めます。はたして選んだ職業とは…